♂ゲイ小説 Just the Way You Are(02/42)
翌朝になって、
「去年からズウッと、耐震構造計算書の偽装だなんて騒いでたけどさあ、倒れちゃうかもしんないマンションを作ったり売ったりするのは、いけないことだろうけど、アタシたちみたいなボロアパートに住んでる人間は、地震で倒壊なんて当たり前なのに、国とか、何も保障してくれないのよね。不安だわあ。大地震のこととか想像すると……」
若い妻は、二階の老人の様子を見に来ていた。
「はっはっは……」と、片手でダンヒルのライターを弄びながら余裕のポーズで食後の葉巻を吹かしていた老人は、
「……奥さん。いまさら、そんなことを愚痴っても仕方がありませんわな。ここはもう、このわたしが越してくる十年も前から建っておったんですよ。それに木造だしなあ。造りかたにしてもむかしなりでしょうよ。お国の基準なんぞ……、どうせそんなもん、何もない頃の築でしょうって……」
まず丁寧に感謝の一礼をしてから、洗い立ての食器を盆へ移して若い妻に手渡した。食卓の椅子からソウッと立ち上がったのだが、どうやら、相変わらず腰の辺りが痛そうと想え、足を引きずり気味にして、そろそろと仏壇へ近付いた。普段は姿良く洋装を着こなすが、この日は、動きやすそうな真白いジャージの上下を着ていた。
「そうそう。今朝、出掛けにね、ター君……、いえ、うちの主人ったら、近いうちに書類を揃えて大家さんを説得するって息巻いてましたわ。絶対に工事事務所に賠償させるって。それに、おじいちゃんの腰の怪我も」
若い妻が、老人の痛々しい動作に気遣いつつ眺めていると、
「若い人たちは、すぐ頭に血が上るから、争いごとばかりになります。いやいや、わたしのことは何もしないでよろしい。それに、アパートのこともなあ、……このまんまで……、ちっとも構わないですわな」
老人は、
――チンチーンチーン
仏壇の鐘を鳴らしてから、無理をしない程度に痛みを堪えて背筋を伸ばし、両手を合わせて、ぶつぶつと念仏らしき何かを呟いた。
間取り1Kの小さな部屋だった。奥に六畳が一間。玄関を入ったすぐのところにキッチン兼居間がある造りも、炊事場と連なっていた洗面所やその奥のトイレ、トイレと隣り合った風呂の位置まで、一階の若い夫婦の部屋と同じ設計だった。一階のほうは、南側にもうひと部屋、洋室が付いていただけの違いだった。
キッチン兼居間と奥の六畳間との境目辺りに位置した押し入れに、その仏壇は収められていた。仏壇の脇には、人物の写真をガラス板で挟んだ小さなフォトスタンドが二つ、いつも大切そうに置かれてあった。
老人の葵荘での暮らしは、もうずいぶん長くて、二十五年ほどになっていた。若い夫婦が生まれるより前から、ここで暮らしていたわけだ。親戚とは、事実上縁を切ったようなものだったから、身寄りと呼べるものは、無いも同然だった。
「ほんとに、おじいちゃんって、どんなことにも悠然としてるんだからあ。高血圧のことだって呑気に構えてたし、おととい転んだときも、X線検査……、アタシが強引に連れて行かなきゃ、やろうとしなかったでしょ?」
身寄りが無いも同然だったから、若い妻が実の孫のように振舞うのが、老人にとっては嬉しくもあり、
「あっ! そうだわっ! ……」
また、戸惑いの元でもあった。
「……インフルエンザの予防接種した? ねえ、したの? おじいちゃん?」
昨今の世事世情を見渡せば、誰だって簡単に知られることだ。近所に住まう同士の人情が、冷たくも薄れ去ったと言われる淋しい現実を。
みんなして、甘くて気持ちの良いさまざまな欲望に駆られる中、個人個人のより快い生活のみに主眼の視線を注ぐ。まず自分の幸せだけを人生の中心に据える。なので、悦楽の施し手たち、華やかな成功者たちが嫉妬と羨望の眼差しを以て専ら注視され、競争に敗れた人たち、独りで悩みを抱える個人、助力を要する虚弱な人たちへの配慮が忘れられたままになる。捨て置かれるのだ。
年老いた夫婦が互いの介護に疲れ果て、無理心中へと走るではないか。二人して一緒にガソリンを被って、廃屋となった焼却炉の中で焼身自殺をするのだ。
幼い子供たちが、いとも容易く、ただの遊び半分に、あるいは性的玩具として弄ばれるように命を奪われる。無残にも、小さな首が切り取られて見せ物のように晒されるではないか。
些細な言い争いが元になって、人を殺してしまう。殺した相手の身体を切り刻み、それら肉片を、隠すのではなく見せ付けるように市中に撒き散らすではないか。
心ない言葉で誰かをいじめ抜く。いじめられたほうが首を吊るまで。生きようとすることの尊さが、絶望する力に圧倒されているではないか。
人々の多くは、連日のように繰り返されるそれらの悲しむべき報道に、すっかり慣れてしまった。これは、生き地獄の様相だ。末法の濁世だ。誰もの感覚が麻痺していて、そのことの恐ろしい深刻さに大した重きを置かなくなった。
美徳のふた文字は、いったいどこへ消えてしまったのか。
「ああ、予防注射ですかな? まだ、してないですなあ。しかし、聞けばなるほど恐ろしい流感ですわな、鳥インフルエンザ……と言うのでしたかな?」
「んーん。そっちも心配だけど、鳥……じゃなくて、普通のインフルエンザよ。人間のね。お年寄りが罹ると厄介なのよ。じゃあ、おじいちゃんはまだなのね……予防注射。心配だわあ。今日、アタシと一緒に行きましょうよ、必ず。いいわね!」
殺生な時代になってしまったと言われるのに、たまたま同じアパートの階下に居を構えた若い夫婦が、これほどまで懇意にしてくれるなんて。
(何やら、想ってもみないことになりましたな……)
――と、老人は戸惑いながらも、しかし、この状況を愉しむことを覚えていた。ことの成り行きを、自然に任せてみようと考えていたのだ。
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