♂ゲイ小説 Just the Way You Are(05/42)
現在でこそ、百貨店が午後九時近くまで営業することなど、ごく普通のことだろうが、そのむかしは、大抵どこの店舗でも午後六時になれば、はやばやと閉店していた。デパートは六時になれば閉まるものだ――と、人々はみな、それで当たり前に思っていたところがあった。平日に、訳けがあってどうしても買い物がしたかった労働者たちは、自分の仕事を放り出して、息急き切って閉店間際の店舗に飛び込んだものだった。百貨店は、どこかお偉い存在だったのである。
やがて、業界の競争が激しくなると、それまでは平日の購買客として積極的には注目してこなかった、アフターワークのサラリーマン・サラリーウーマンたちを、平日の晩、帰宅がてら、ショッピングに立ち寄らせることで、売り上げを増やして生き残ろうとの目論見を、百貨店サイドは抱いた。
そのため、段々と、この営業時間というものが延長されるようになった。どの百貨店もこれまた競うようにして、まず午後六時半まで、そして午後七時までと、閉店時間を遅らせるようになってきたわけだ。
ときは、そのような時代へと遡るのである。
昭和五十四年のことだ――。西暦にして、'79年となる。
三越・新宿店の七階催事場では、この日の閉店後から要領次第では翌朝まで、翌日の金曜日に立ち上がりとなる“春のメンズフォーマル大特価市”の設営が予定されていた。
人々が行き交う新宿通りとは反対の建物裏側、やや狭い路地に面して、当時、横にヌウッと長く伸びた検品所があった。その一番端っこに位置した通用口の前にたむろして、ディスプレイの応援スタッフとして臨時に召集され、ずっと閉店時間を待ち構えていた各納入業者の若い社員たちが、
“ようしゃあ! 始めるぞーっ!”
“あーあ、やっとかよー”
午後七時を廻って、入館が可能になったことを告げる裏方用のブザーがジージーと鳴り出すとともに、
“ほいほいほい、早く行けや、早くうー”
“ここで焦っとくと、終電で帰れるわけ? あんたは……”
我先と、慌ただしく通用口へと雪崩れ込んだ。一人一人、社名と名前とを台帳へ記入して、入館証を受け取った。彼らはこれから、場合によっては夜を徹して、催事のセッティングに当たった筈だ。マネキン人形に恰好良くスーツを着させ、ワイシャツ類をきちんと棚に整え、ネクタイをどれも真っ直ぐ平台に並べ、そしてカフスボタンやネクタイピンなどの小物をウィンドーケースの中へ美しく配置する作業だ。さらに在庫品の管理場所を確保して、それぞれ納入業者ごと自社の印を施したり、販売員たちのロッカーに名札を貼り付けたりと、客には見えない仕込みも事細かにやった。
“うちは、終電には終わりますよ。いや、終わらせますって”
“いいねえ。俺は、はなっから大残業が決定なんだよ、催事のたんびに午前様だね”
“大残業ねえ。泊まり込みねえ……。手当は付くの?”
“んなわけないでしょうよ、このご時世に。サービス大残業に決まってんでしょ! このまんま、明日も仕事だよ”
検品所の隣りには、大きな商品搬入口が設えられていた。ここへ向かって、やや狭い路地を占有するように、催事用の納入品を積んだ大小のトラックやヴァンなどが横付けの列を成して順番待ちをしており、
――ピーッ、ピッピッピッピッ、ピーーーッ
警備員が吹き鳴らす笛の誘導で、数台ずつが検品台のほうへ“ケツ”を向けるように滑り込もうとしていた。
“はーい! ストーップ!”
車輌のケツが、その先の検品台のぎりぎりまで到達するや、即座に係員が荷台のドアを開け放ち、商品が次々と運び出された。
“はい、どこ?”
“オンワード柏山”
“段ボールの個数だけ言って!”
“段ボールで二十三個、人形が十五……”
“什器はマネキンだけ?”
“それと、円形の山台も”
商品や什器類は、本来、全てここで検品を受けないと店舗の中へ持ち込むことができなかった。だが、此度――“春のメンズフォーマル大特価市”の場合は、商品のほぼ100%が委託扱いの仮持ち込みで、一週間の催事期間中に売れた分だけ三越が仕入れる形を取っていた。そのため、検品はやたらとルーズだった。差し当たって、この検品の段階で細かく商品と伝票とを付け合わせて、ロットの記号・番号と数量、上代や下代を、いちいち照合する手間が、当然の如く省略されたからだ。
「柏山さんとこさー。下ろしたらいちいちそこに置かないで、とにかく、どんどん中へ運んじゃってよー。邪魔だからさー! 後がつかえてんの分かってるだろーよ? ……」
四十代の独身男――。あの頃、葵荘――201号室で、独り暮らしをしていた饗庭潤吉は、ここ検品所に勤務していた。検品担当の副主任という肩書きが付いていた。三越という老舗高級デパートで、ネクタイをせず作業着姿で一日じゅう過ごしていた社員など、この部署ぐらいのものだった。警備やレストランの調理といったノーネクタイの要員は、ほとんど専門業者からの出向であり、食品売り場担当の男性社員でさえ、エプロンの下にはネクタイを締めていた。
しかも、潤吉は、
「……っとにもう。だらだらしてんじゃねえよっ!」と、かなりの強面で通っていた。染み付いてしまったこのキャラクターでは、いまさら、接客のある部署には移れなかった。体育会系のノリを持った男だと、周りの社員や業者の担当者からは想われていた。仕事を離れた素の姿となると、決してそうでもなかったのに。
学生の時分は、実際、体育会所属で陸上をやっていた。もはや、年齢的には、立派に中年の域へ達していたわけだが、体格はスマートで身のこなしは軽いほうだった。
社内では不文律として堂々と罷り通っていたように、独身でいる限り、いつまでも出世できない典型例だと、潤吉は、陰で指を指されていた。しかし、潤吉本人は、どうとも思っていなかった。出世するべき必要を、大して感じていなかったのである。
「ほらほらあっ! もたもたすんな! 言っとくが、オレは早く帰りたいんだからな。あんたらと朝まで付き合うつもりなんぞ、ないんだぜー」
――と、場の空気を切り裂くような大きい声で、潤吉は、検品所じゅうを動き回って活発に仕切っていた。納入業者の営業社員たちは、潤吉の怒鳴り声にビクビクと怯えていた。彼の機嫌を損ねてしまうと、なかなか検品を通して貰えないこともあったようだ。
催事の有無に関わらず、潤吉はテキパキとした仕事を心掛けていた。自分が、さっさと仕事を終えてしまいたいことも当然あったのだろう。しかし、そのようなことよりも、こうした大きな催事の場合では、商品の搬入がスムースに進まないと、設営の全体が滞ってしまった。催事担当の責任者からも、いろいろきつく言われていたのだ。商品の移動を早くしろ――でも乱暴に扱うな――などと、好き勝手をだ。
とにかく、ブツをショバにぶち込んで飾りを付けさせて、あとは目玉商品を謳った広告をバンバンと打って大勢の客を呼び寄せようとした。要は、それだけでお仕舞いだった。百貨店で、むかし主流だった仕事のやり方とは、そのようなものだった。百貨店のブランド名と“ハコ”とを提供して、あとは売れれば良しだ。ショバ代を取っておいて、売れた分だけ、さらに上前をはねた。商品そのものに対する愛情など、二の次だった。
「次は、どこだっけ? あ、東京スーツねー? 段ボールでいくつなの? ……」
梱包がぐずぐずで解け掛かっていた段ボール箱から、商品が生のままで飛び出していても、ここにいる誰もが、みんな知らぬ存ぜぬの体だった。
「……ロットの数なんていいから。そうー。売れなかった分は、綺麗に全部持って出て貰うんだもんね。これが、うちんとこの買取だと言うなら、そうはいかないけどなー」
殿様商売の最たるものだと、潤吉も重々承知の上だった。だが、どうせ出世がないと決まっている身だったのだろうし、しがない検品所の副主任などは、経営ポリシーやら、お客さま意識やら、商品へのデリケートな心遣いやら、そのようなことには関わりがないのだ、給料だけ頂ければ、それで良いのだ、――と、斯様に割り切って清々しく諦めていた。
この晩は、何より池星靖一と約束した時間までには検品作業を終えてしまいたいと、ただそれだけを念じながら、大量の搬入商品の山々と格闘していた。おおむね二時間もあれば、否――、それほどまで時間を掛けずに、今度の催事の商品を、どさどさとあらかた搬入してしまえるというプロの計算だった。
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